1.はじめに
童謡の「赤とんぼ」は、多くの方が口ずさんだことがあると思います。
歌詞の2番を覚えておられるでしょうか? 作詞者の三木露風さんは、故郷
(兵庫県龍野町(現・たつの市))の郷愁をこの童謡に詠んだようです。
♪ 山の畑の 桑の実を
小籠に摘んだは まぼろしか
![s-1338484372[1].jpg](s-1338484372[1].jpg)
桑の実が色づくのは梅雨入りの頃だったでし
ょうか。
桑の実は熟すにつれて赤から黒色に変わります。
熟した桑の実を頬張ると、口の中に甘い果汁が
広がります。筆者が小学生だった頃、学校の帰
り道によく「どどめ」を頬張って口のまわりを
赤黒く染めたものでした。故郷の群馬県では、
↑桑の実(どどめ) 桑の実のことを「どどめ」と呼んでいました。
(出所:http://pub.ne.jp/rokumon/?entry_id=4352219)
近江に、桑實寺(くわのみでら)という古刹があります。
桑の実の季節を過ぎた梅雨明けでしたが、桑實寺を訪ねてきました。
2.場所

JR東海道線で近江八幡から米原
方面に向かうとき、安土駅を過ぎる
と安土山と繖山(きぬがさやま)の
間を抜けて行きます。
安土山には安土城址、繖山には観
音正寺や観音寺城址などがあります。
桑實寺は繖山の西側中腹にあります。
近江源氏の六角佐々木氏は繖山(432メートル)に大規模な山城(観音
寺城)を築いていましたが、信長に攻められて落城しました。
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安土城址を近くに望める繖山の西麓に
は、ポルトガル風建物の安土城考古博物
館と文芸の里・信長の館が並んでいます。
←安土山
↑西側から見た繖山
↓安土城考古博物館 ↓文芸の里(中腹に桑實寺)
3.参道
桑實寺へは、文芸の里の少し南から繖山の谷間を登ります。
入り口の少し手前に石の道標が残っていました。
・桑實寺 4丁(約400メートル余り)
・観音正寺 12丁(約1,300メートル)
・安土駅 12丁(約1,300メートル)
・長命寺 3里(約12キロメートル)
←参道の入り口近く
↓石の道標
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民家が途切れるあたりから石段が上に延びていました。
石段を登り始めたとき、3人の老婦人が下りてきました。「もう拝観された
のですか」と尋ねると、「今日は暑いのであきらめます」とのこと。
←山門まで延びている石段
↓
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山門をくぐってからも石段が続いています。
振り返ってみると、遠くに近江富士(三上山)が見えました。
←山門越しに見る近江富士
↓湧水の小川に架かっている石橋
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途中に地蔵堂があり、地蔵菩薩が祀られ
ていました。南北朝時代(14世紀)の作
だそうです。
←地蔵菩薩
↓新しい菩薩
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石段は折れ曲がってからも、延々と続いています。
梅雨明けの強い陽射しを受けながら本堂までたどり着つくのは、大変な荒行
でした。
かつて、この参道は参拝者だけが利用したわけではありませんでした。
参道の両脇には多数の、20くらいでしょうか、坊舎が設けられていたそう
です。修行僧は毎日この階段を上り下りしていたのでしょう。
←果てしない石段
↓ようやく見えてきた本堂
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登り終わってから寺務所で尋ねてみると、石段は下から600段ほど、山
門からでも450段あるとのことでした。
安土城考古博物館の裏から本堂脇まで遊歩道が延びているようなので、遊歩
道を歩いたほうが楽かも知れません。
4.本堂
本堂は広い境内にゆったりと構えていました。
境内にはもみじの青葉が茂っていました。秋の紅葉はさぞや素晴らしいこと
でしょう。
←本堂
↓
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この寺は、天智天皇(626−672年)の勅願により、藤原鎌足の長男、
定恵が白鳳6年(677年)に創建した、と伝えられているそうです。天智
帝が第4女の病気回復を祝ったのだそうです。
創建の由来を描いた「桑実寺縁起絵巻」があります。
これは室町幕府第12代将軍の足利義晴が奉納した(元文元年:1523年)
ものだそうです。義晴は、後述するように、この寺と深いかかわりをもって
いました。
【志賀の宮で病に臥し
ていた天智帝の第四姫
あべ皇女が夢に見た湖
を渡る薬師仏の瑠璃光
について語っていると
ころ】
↑桑実寺縁起絵巻の一部
(出所:http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/hoso_kuwanomi.htm)
←鐘楼
↓経蔵庫(正面)
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この寺には、かつて三重塔があったそうです。
桑実寺縁起絵巻に三重塔が描かれています。建てられていた場所は、現在の
経蔵庫の近くのようです。再建を目指して勧進が行われています。
←再建予定の三重の塔
↓本堂近くの正寿院
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観音寺城を拠点とする佐々木氏が勢力を誇っていた時代、第11代城主の
六角定頼は、亨禄4年(1531年)、京都から逃げてきた第12代将軍足
利義晴を桑實寺に3年間かくまい、ここが幕府の仮御所になったそうです。
なお、足利義晴は岡山城(水茎岡山城:近江八幡市)で生まれたそうです。
豊臣秀次が城主となった八幡山城の八幡山山頂から西を見下ろしてみると、
水茎岡山城址が望めます。湖畔の平野に丘がぽつんと立っていますが、当時
はびわ湖の中に浮いていたようです。
←中央に岡山城址、その右手に八幡山、
遠くに比叡山(桑實寺本堂近くから)
↓岡山城址(八幡山山頂から)
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このように、桑實寺は素朴な寺名の由来を負っているだけではなく、国政
を左右する歴史の表舞台にも登場した、という経歴を秘めているお寺です。
5.余禄
京都市の太秦に木嶋神社 (このしまじんじゃ)があります。
通称・蚕の社(かいこのやしろ)として知られています。続日本紀の大宝元
年(701年)4月3日の条にこの神社の名があることから、創建はそれ以
前とみられているそうです。
←蚕の社
↓嵐電蚕ノ社駅
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入り口の石碑と灯篭には、難しい字で社名が刻まれていました。
「蠶神社」と「蠶養神社」です。「蠶(かいこ)」の部首「虫」はひとつだ
けです。「蠶養」とは「こがい」と読むのだろうと思われます。
(ちなみに、群馬県には蚕養(こがい)神社があります⇒
絹の里めぐり)
←蠶神社
↓蠶養神社
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本殿は素朴な造りです。
本殿近くの石垣に、縮緬業者が奉納したらしい石碑が建っていました。
←本殿 ↓縮緬業者奉納の碑
(文化10年:1813年)
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本殿の向かって左側に、変わった鳥居が建っていました。
3本の柱が建っている鳥居です。平面的には三角形の頂点に柱が建てられて
いますので、三方から拝礼することができます。
何故このような鳥居が建てられたのでしょうか。
この鳥居とは関係ないと思いますが、近くの拝殿の柱は日本の柱で補強され
ていました。
←三柱鳥居
↓柱を補強している拝殿
6.おわりに
「衣食住」の語は、なぜ「衣」が最初にくるのでしょうか。
人が生き延びるためには、まずは「食」を確保しなければなりません。
外国語をみると、
・韓国語 : 衣(ウイ/eui)食(シk/sik)住(ジュ/ju)
・中国語 : 衣食住行
・英語 : food, clothing and shelter (食・衣・住)
・ドイツ語: Kleidung, Nahrung und Wohnung"(衣・食・住)
歴史的に見て、絹は「衣」の代表選手として活躍してきました。
その絹の生産地は、シルクロードを生み出した中国をはじめとして、アジア、
中東、ヨーロッパ、アメリカなど、地球規模で移動してきました。
日本では古くから養蚕が行われてきました。
今回訪ねた桑實寺は、その歴史の語部の一人と言えるでしょう。
日本の絹産業は、明治以降の近代化を推進する役割を果たして来ました。
かつて、日本では全国的規模で養蚕業が営まれましたが、群馬県が最も盛ん
だったようです。その群馬県に、官営として最初の富岡製糸場が作られたの
は明治5年(1872年)でした。
つい先日(2012年8月23日)のニュースによれば、政府は、世界文
化遺産登録の暫定リストに挙げられていた「富岡製糸場と絹産業遺産群」を、
ユネスコへ正式に申請することを決定したそうです。
順調に進めば、2014年には世界文化遺産として登録される見込みだそ
うです。
(散策:2012年7月17日
脱稿:2012年8月28日)
ご参考:既報の関連記事
・
群馬 絹の里めぐり −−−− 富岡製糸場と絹産業遺産群
・
アメリカ歴史散策(その6)−− アメリカ最初の製糸場
参考図書
・
近江歴史紀行
びわ湖放送・編 昭和50年11月
・
近江戦国の道
近江文化を育てる会・編 1995年3月
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